K-POPをゆるゆると。

君は僕の宇宙

ファンをやめてしまった女がEXOにジャックされた渋谷を見て思うこと

を一言で表すなら、街中で元彼を見かけた時のような感情を抱いてしまう、という表現が最も的確なのかもしれない。
私はアイドルの魅力は手の届かなさだと思っているのでアイドルと現実の恋愛を混同しているような表現になってしまうのは心底不満なのだけれど、でもこれ以外に端的に今の私の気持ちをまとめる言葉が見つからない。

特に決意もなくEXOのファンをやめてしまったことが、じわりじわりと自分の生活の安寧を蝕んでいるのは確かだ。昨今日本でのメディア露出が増えるばかりであるため、苦々しくも目が離せないという曖昧な感情を自覚させられる回数も増えた。
どうしてファンをやめてしまったのだろう。
どうして私は今のあなたたちを喜んで受け入れることができないのだろう。
それは苦くて重い感情で、言うなれば自責の念に近い。自分を責めてしまうのがなぜなのかはわからないが、やはり大きな出来事を受けてのファン卒業ではなかったからだろうか。自分の許容範囲の狭さに失望するというか、許容も何もアイドルなんてただお金を払えば楽しませてくれる存在であるはずなのに楽しめないどころか拒絶する自分が理解できないというか、自分が普通でないような、不寛容な存在であるかのように感じて絶望するというか。

かといって私がコンサートに出向いたところで、周りの熱狂に無理して合わせて歓声を出している自分を客観的に見て、滑稽さと居心地の悪さを味わうだけなのだろう。私が今回、EXOの4回目のコンサートに行かなかった理由は実際そこなのだし。
いつからEXOに熱狂できなくなったのか。
タオが脱退したとき?
いや違う、私はタオの脱退を受け入れるために、そしてカイのダンスを鑑賞することを目当てに向かったLuXionで確かに茶髪のセフンに目を奪われて、アンコールでグッズのパーカーのフードをかぶるその姿まで目に焼き付けて、セフンとEXOの今後を見守り続けることを確かに心に決めながら京セラドームを後にした。

それから約1年が経って、勝負のセンター試験まであと1ヶ月を切ったような状況でEXO'rDIUMに行ったとき、私は黒髪で前髪をあげているセフンを見て気持ちが上がらない自分にものすごく動揺したのだ。好きなグループのコンサートを見ながら心の中で少なくとも3回は「今回のコンサートDVDは買わないな」と考えた。
しかし私はそれですぐにファンをやめたわけでもなく、じわじわと、ティーザー公開に全く心動かされず結局見なかったことや、Ko Ko BopのMVを見て最初に思い浮かんだ感想が「今時ヘナタトゥーか…」というものだったこと、a-nationに行って一番気分が上がったのがNCTのCherry Bombを見たときだったことなどから段階的に自分の熱量のなさに気付いていった。ElyXiOnの凝ったチケットデザインをファンの方々が喜んでいるのを見ても無感動で、5回目くらいの「なんで普通の"l"にしてないんだろう?」という感想を抱いたとき、初めてコンサートに行くのをやめようと思った。その瞬間にもうだめだ、本当に続けられそうにないと悟り、以後友達などと話していてその話題になるともうファンをやめたのだと話すようになった。

一見ごく自然な流れではあるが、一瞬で嫌いになる、あるいは他の何かを好きになるような大きな出来事が起こった訳でなくて、きっと、ずっと根底にあった問題が顕在化してしまっただけなのだ。

多分私は、セフンに降りるときにもっと慎重にならなければならなかったんだろう。もっと入念な動機付けが必要だった。

タオに一目惚れしたことがジャニオタをやめた私のK-POPに入るきっかけであったわけだが、タオがやめて、その喪失感から半年以上もの間EXOでいた頃のタオを美化し、実際にタオが在籍していた頃自分がタオに向けていた感情まで過大評価して、タオという人間についてあてもなく考えて幾重にも偶像化して、何度も何度も煮詰めて、ビーフシチューなら絶対にタールのような惨状になっているくらいにまで火をかけ続けていて、そんな歪んだ感情をバブルのように実体の何倍にまで膨れ上がらせた状況で、たった3時間のコンサートがセフンをタオに匹敵する存在にしてくれるわけはなかった。
優劣の問題じゃなくて、かけた時間の重さとか釣り合いの問題だ。かけた時間の濃さも長さも、あまりに違いすぎた。

きちんと省みさえすれば、ある程度予見され得たし防ぎ得た結果だったのではないかと思う。それが分かるからこそ、より悲しい。

SMのドキュメンタリー映画2作目、SMTOWN THE STAGEを見て私が涙を誘われたのは、少女時代が東京ドームでデビュー曲を泣きながら歌う場面だった。多分それを見たのはluXionに行く前だったのでEXOのファンをやめるつもりだったし、その涙は「こうなっていくEXOを見届けたかった」というものから出てきたものだったと記憶している。
多分、日本で盛大にEXOが宣伝されているのを見て苦々しい感情が湧いてくるのはこれが関係しているのだろう。
私はSMTOWNで東方神起の圧倒的な強さを目にして以来EXOが日本で立派になっていく未来を心の底から期待していたし、だからこそメンバーが日本語の習得にあまり積極的でない状態が歯がゆく、時に不満も抱いたりもした。
当時の私が思い描いた状況が実現しているにも関わらずそれをEXOとともに喜ぶことができない自分が許せなくて、EXOの広告そのものを不愉快だと認識してしまうのだろう。

アイドルに飽きた自分が許せなくて気分が落ち込むなんて、本当に生きにくい性格だと我ながら辟易する。

めまぐるしく担当を変えていたジャニオタ時代、担降りに際して人がものすごく長文のブログを書くことを理解はできても共感はできずにいた。今ならわかる。きちんと自分の中で理由づけして気持ちを正しい場所に整理してからじゃないと、元担当を見た時うまく対処できないからじゃないだろうか。
特にジャニーズはジャニーズカウントダウンコンサートなどで元担当と担当が同じ場で居合せるというのはよくあることだろうし、ペン卒で事務所を横断することが少なくないK-POPとは少し様子が違うように見える。(SM内で降りるときは降りるというよりも掛け持ちが多いイメージ)

結論としては推しを変えるときは長文でブログや日記を書いたりして、前の推しを好きだった自分を十分弔ってからにしましょうということを伝えたかった。私も周回遅れではあるけれどもこうやってポエムを書き上げたら好きだった気持ちもモヤモヤしていた気持ちも、そして何より沈んだ感情とかれこれ1年くらい付き合ってきた自分のことも弔うことができた気がするので。何に関しても自分の気持ちを記すって大事なんだなあと思わされた出来事でした。以上!